相対性理論とアインシュタインズの相似性と相違性
車を運転しながらアインシュタインズを聴きながら、彼らがどうやって相対性理論のコピーをしたのかについて考えていた。
初期相対性理論のサウンドは非常にわかりやすい。そこそこのテンポの、耳ざわりのいいバンドサウンドに無表情なウィスパーボイスが乗り、盛り上がってくると軽やかなギターのアルペジオが重ねられる。私はこのギターが好きでライブに行ったところ、すさまじくヘタクソで衝撃を覚えたものだ。当時はそれについて誰かの夢を壊すまいと表では言わなかったが、もういいかげん時間も経って初期理論も終わったことだし、知ってる人は全員知ってることだろうから言ってもいいだろう。
アインシュタインズは「遊び半分で理論っぽい曲を作った」と公言されているとおり、ぱっと聴いただけで「理論っぽい」と思ってしまうほどの巧さなのだが、実際のところ音楽のジャンルは同じではない。
理論がごくごく普通のバンドサウンドなのに対してアインシュタインズはエレクトロであり、いわゆるピコピコサウンドである。楽器はDTMの長所を生かして色々使っているが、音楽的なルーツはピアノのように見える。当然、楽器の構成が違えば曲調だって違ってくる。例えば、理論の真部サウンドでいかにもなドヤ顔をして頻出する主張の強いアルペジオなんかはあんまりなくて、その代わりにアクセントとして装飾的な旋律が色々とちりばめられているように思う。アインシュタインズのほうに、いわゆる「真部節」の特徴はあまり感じられない。ただ、補助的な旋律については理論のクセを踏襲しているな、とは思うが、完全に似せないのは、やはり作曲家としてのプライドとか、完全に似せたら面白くもなんともねーだろ! みたいなものがあるのかもしれない。
私は作曲については全く素人であって知らないことを言うとどうせすぐボロが出るので、曲についての感想はこのへんでやめる。
とにかくこのように、理論とアインシュタインズはボーカルが非常に似ていることと、曲のテンポと耳ざわりのよさ、あとは端々のクセを真似ているくらいでそれほどイコールではないのに、明らかに「理論っぽい」と思ってしまうのはなぜだろう、と思ったわけです。そこで、あと残っているものといったら歌詞か、歌詞だなーと思って歌詞について少し考えてみた。
まず浮かんだのは「日常と非日常」である。理論の曲の歌詞のほとんどは一人称が女の子である。そしてだいたい二人称的な男の子がいて、日常と非日常が入り交じる。それは日常を生活する女の子に男の子が非日常を持ち込んだり、女の子が自ら好きこのんで非日常に踏み込んだりするのであるが、そのどれもで女の子は自分の置かれた環境を客観的に俯瞰している。非日常はおおむね超現実的で、しかしごくごく普通の日常と絡むことで、ファンタジーというよりもマジックリアリズム的な雰囲気を醸し出している。
これはつまり一言でいえば「セカイ系」な世界観なのだけど、理論の歌詞が面白いのは、主人公の女の子は主人公のくせに傍観者ということだ。これはセカイ系の作品ではあまりみられない傍流的な表現だと思う。強いて言えば、ふみふみこや今日マチ子のマンガなどが近いかもしれない。主人公は自らの意思で行動しているにもかかわらず、なんとなく少し引いた視点で特に感情もなくそれを自ら見ている、喩えるならば離人症のような世界観。今日マチ子なんかは作品中にも「リロン」が出てきたり、そもそもまるえつとお友達のようなので、感覚が近いのかもしれない。
アインシュタインズの曲はややもすれば、アインシュタインズというアーティスト名や、いかにも理論っぽい曲名などに目が向くのであるが、歌詞もよく聴けばこれもまた理論とは違った方向性で非常に上手い。
理論の歌詞の巧さが主に意味を中心にした言葉選びの絶妙さや、まるえつ独特の演繹なのであろうお話の進み方として表れているのに対して、アインシュタインズの歌詞の巧さは主に韻の踏みかたや、そのうえで筋の通った歌詞。やはり思考回路のぶっ飛び具合は理論には及ばないのだが、論理的な積み上げで「お前らこんなん好きなんやろ?」というものをぺろっと出すところは、曲もあわせてさすがプロ、というところである。
そしてアインシュタインズは理論とは違う巧さの歌詞の組み立てをしつつも、「離人症的なセカイ系」、なんだか非現実的な非日常が進行しているけれども、なんだか実感が湧かないし、みたいな方向性についてはきちんと踏襲している。
最後にひとつ、多分アルベルト氏はこれは意識していないのではないかと思うが、理論の歌詞の進行はあくまでも与えられた環境に対する主人公の女の子の意思によるもので、それについて色々な感想があり、しかし自分は客観的な立場で見ている、というどこまでも本質的に主観的なものであるのに対して、アインシュタインズの歌詞は「~~~~ということがあるけど、あくまで私には関係ない」ということをいくつかの歌詞で明言しているが、全般的にそのようなスタンスであるように感じる。関係ないのにも関わらず延々とそれについて歌っており、これはつまり本質的には主観的ではない。理論の歌詞で女の子が言う言葉が、あくまで自ら発せられたものであるのに対して、アインシュタインズの曲中におけるヒロインの女の子はなんだか言わされている感がある。歌詞を書いているのが誰かということを考えれば、その原因は容易に想像できる。まるえつにとって歌詞はわがごとであり、アルベルト氏にとっては他人事なのである。アルベルト氏は理論の歌詞の方向性についてまでは難なくキャッチアップできたが、その主体が誰か、ということを投影する段においては、まるえつのようにはいかなかったということだ。このあたり、「自分がやりたい表現をやることしか考えていないナチュラルボーンアーティスト」と職業アーティストの意識の違いがよく表れているのではないかと思う。
あ、そうそう。アインシュタインズの初アルバム買いました。
http://copipe.theshop.jp/items/425575
そしてまるえつが好きな人はこちらが待ち遠しいですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/TOWN_AGE
真部脩一が好きな人はタルトタタンをどうぞ。
http://www.emission.co.jp/tartetatin_first_album/