イギリスのEU脱退について
数年前、イタリアにいったとき、トランジットがコペンハーゲンだったのだけど、それはそれは素晴らしい空港だった。羽田成田お前らもうちょっと見習え。
コペンハーゲンは北欧なのでマジで物価が高くて死んでしまいそうなのだけど、スシバーがあったので入らざるを得ず、明らかにサブウェイでサンドイッチ作ってる感じのおにいちゃんとおばちゃんと拙い英語で喋りながらデンマーク流の寿司を食べたのね
結論から言うと美味かったんだけど、店のおばちゃんが言うには、コペンハーゲンの街には美味いものがいっぱいあるから食いに行けってことだったんだけど、残念ながらトランジットだったので無理だった。
このブログは寿司ブログのはずなのに、いつも寿司について書かないので、最後に適当に寿司っぽいことを書いてごまかすのが通例なんだけど、今回、別に寿司のことを書こうとおもってたわけではないのに、気が付いたら寿司のことを書いてた。すごい。頭悪い。
ちなみに今日の晩飯はスシローからのくら寿司というハシゴ回転ずしでした。くら寿司はとうとう生ビールまでセルフになっていた。くら寿司の冷麺はめちゃくちゃ不味い。
イギリスのEU脱退については、今更感がぬぐえないしもっと賢い人がわかりやすい記事をいろんなところで書いてるので適当にぐぐれ
知らないことをさぞ知っているかのように振舞うことが恥ずかしい
最近、人生何度目かの神座ブームが襲来している。
神座というのは大阪で有名なラーメンチェーンで、東京にも進出しているので知っている人も多少いるとは思うが、わりと独特な味なのである。
流行りの豚骨とかとは全然違って、澄んだ甘いスープ。それはいわゆる昔懐かしい系とも違う。具は白菜がたっぷり入っている。鍋っぽいと形容する人もいる。
新宿の神座でラーメンを食べながら、ネットで評判を見る。
「豚のダシがよく出ているが、うんたらかんたら」
「煮込まれた白菜のダシがよく出ている、なんとかほげほげ」
自称ラーメン評論家というような人たちが、あれこれ好き放題に書いているレビューがたくさん出てくる。さすがそれなりの有名店だから。でもこれ全部的が外れている。
神座のスープはフランス料理の応用で、主な出汁は牛である。そして白菜はラーメンを作るその時に、中華鍋でスープにぶちこんで炒める。なんでこんなことを言えるかというと、私は高校時代に神座でバイトをしていたから。
色々なレビューを読むと、多くの人が、憶測で間違ったことを偉そうに語っている。非常にばかばかしい。というか、スープの出汁がなんなのかなんてことは、それなりに舌の肥えた人間であれば、味わえばある程度わかるはずである。
こういうことがあって、本当のことを知らないことについて語るのは怖いなあ、と思いつつも、この問題のなにが問題かというと、これに気づいてしまってから、ブログを書くことが非常に億劫になったのだ。
私も過去、はてなブロガーとして少し有名だった時期があって、だいたい1日数千ほどのアクセスがあった。固定ファンのような人もいて(話題がITとか時事問題だったので男ばっかりだったけど)、それなりに調子にのっていた。
そのブログは仕事関係でトラブルがあって、直接の当事者ではないのだが、限りなく当事者に近い立場にいたために閉じた。
もちろんそれで完全終了になるわけもなく、すぐさま新しいブログを立ててしばらくは更新していたのだが、その途中でいろいろと疑問がわいてきた。
ブログのアクセスを増やすのは、正直難しくない。話題になっているできごとについて、多くの人の意見とちょっと違うようなひねくれた意見を書き、大きなアクセスのある有名ブロガーのブログにトラバするだけだ。見に来てくれた人のうち、幾人かは私の文章を面白いとおもってくれて、読者として定着する。そもそも、この方法が非常にさもしくてもう嫌だな、と思っていたこともある。
そしてなにより嫌だったのは、自分がよく知りもしないことを、さも詳しいかのように振舞わなければならないことだ。もちろん自分がよく知っていることもあるが、それにしたって自分より詳しい人は世界中に山のようにいるし、自分がよく知っていることについて語るとき、それだけで完結するのではなく、どうしても自分がよく知らないことについても話題は広がってしまう。しかし正直に言って読み専というのはそんなに賢くない、知識のない人も多いので、日ごろからニュースやいろいろなブログをそれなりに広く読んでいれば、そういう人たちを煙に巻ける程度の知識は備わってしまう。そんな付け焼刃を、さも磨き抜かれた鋭い刃であるかのように見せかけて興を買うのは実につまらない。
数年前に書いた自分のブログなんかを見ると、もうそれはそれは恥ずかしくなる。ああ、当時このブログをみたいい大人には「ああ、なんかお子様が一生懸命やってるんだな」って思われてたんだな、と。
そういうわけで、恥ずかしくない文章を書く自信がぜんぜんなくなったので、ブログをあんまり書かなくなった。
これに気づいてから、私は評論家とかいうものをあまり信用できなくなった。人というのは自信に満ち溢れた人に無条件に信頼と好意を寄せるようになっていて、世の評論家は、私はなんでも知ってます、というふうを装ってさまざまな評論をしているが、前述したように、自分の専門分野でないことがらについてもよく知っているふうに語らなければならない。あるいは、ドヤ顔で非常に浅い考えを披露していたりする。
知識のない、考えもない、ただただ知識人の発言をありがたく拝聴するような情弱ばかり(おそらく人口としては一番多い)に接していると、とにかくすべての物事について正しい回答を授けなければならない、というような間違った考えを持ってしまうのかもしれない。何を言っても有り難がられるので、もはや自分が何を言っているのかわからなくなっているのかもしれない。
いろんな知識人が、しょっちゅうネットやテレビで炎上しているが、たいていよく知らないことを知ったかぶっていることが遠因になっていたりするような気がする。今までバカ相手にそれで通してきたんだろうし、そういうものを賢い人はとりあうのもバカバカしいので放置してきたんだろうけど、色々な理由で放置できない状況になって、いざ俎上に上げてみると、あれよあれよと自壊する。そういう人を良く見る。
沈黙は金、雄弁は銀、という言葉があって、私は今でもそうだが、子供のころから非常にいらんことを言う子供だったので、父親にいつもそういってたしなめられた。大人になってから、この言葉を作った当時のヨーロッパでは、金より銀のほうが価値が高かったということを知り、父親に抗議したところ「そんなことは知っている」とだけ返された。その後もずっと不服だったのだが、今にして思うと、金と銀どちらが優れているとかいうことにあんまり意味はなくて、しょうもないことを言って尻尾を出す事に比べれば、沈黙も雄弁もはるかにいいのだ。別に雄弁したいならすればいいけど。できるならね。自信がないなら黙っとけ。そのうえで、黙るか喋るかは自分で考えろ、という話で。
なんかはてなブロガー向け飲み会とかいうのに参加させてもらうことになったので、久しぶりに適当な記事をかきました。しかしながらその飲み会は寿司ではなくやきとんだそうです。
平穏な心で日々を過ごす方法
最近、怒らなくなった。
元来神経質で怒りっぽいほうで、例えば待ち合わせに遅刻してくる人なんかも許せなかったのだけど、なんだか数年前、あるとき「別に遅れてもいいんじゃね?」というアイデアが頭に浮かび、「待ち合わせに遅れてはいけない」という自分の中のルールを、「別に遅れたっていいじゃん」に変えてみたところ、ずいぶん人間関係がはかどるようになった。予定が狂うことを嫌う人もいるが、予定など狂うものである。30分遅れてくるならカフェに入ればいいし、1時間遅れてくるなら服屋でも物色すればいい。2時間遅れてくるなら寿司屋に行く。
きっかけはその時間にルーズな人間を許すというところで、これは今考えてみると、「時間は守るべき」という自分の中の勝手なルールにしたがって、相手にも時間通り到着することを暗黙のうちに勝手に期待していたため、いざ遅刻されると裏切られた気になり、被害を受けたように感じてしまうのである。こちらは時間通り来ているので不公平感もある。勝手に期待されて勝手に裏切り者にされて勝手に恨まれる相手はたまったもんじゃない。
最初から相手に期待しないようになると、たとえ相手が10分遅刻しようと、1時間遅刻しようと、それどころか来なかったとしても、全く相手に対する怒りは沸かなくなる。もちろんすっぽかされると残念ではあるし、ああ、こいつはこういうやつなんだな、という、実績に基づく定量的な評価はするものの、恨みがましい感情を相手に募らせることはなくなる。
むしろ、そういう考えかたになってからというもの、時間を守る人間、納期を守る人間、義理堅い人間なんかに対する評価が非常に高くなった。約束を守ることに期待する世界では、約束を守るのは当たり前なので、約束を守っても何の評価もないが、約束を守ることが期待されない世界では、約束を守る人間というのは期待以上の非常に優秀な人間に見えてくる。
同じように、モノを知らない馬鹿、礼儀のない失礼な人間、視野が狭くて驕っている人間、他人の気持ちを汲めず自分の思考を押し付けるだけのアスペといった人間のこともどんどん許せるようになっていった。彼らはみな悪意があって、こちらを害そうとしてそうしているわけではない。たまたま考えや経験が足りないだけであって、その根本はきわめて善良な人間であることがほとんどだ。そんな善意の人に対して、なにかが足りなかったからといって怒りをあらわにして詰問したりするならば、それこそが悪意である。
男をATMとしか見ていない女子なんかは常に攻撃対象にされているが、たまたま運が悪くて、出会う男のことごとくが、女を性欲の捌け口にとしてしか扱わないようなクソだったのなら、そんなふうになってしまうのも当然だ。
アホな学生もよくネタにされているが、おおかたそれを笑っている社会人のおっさんおばさんだって大学時代はおおむねそんな感じだったでしょ?
キチガイ老人の跋扈するニュースも途絶えないが、彼らはさすがにもう更生不能だとしても、若い人間はいくらでも改心のチャンスがある。いろんなタイミングでいろんな気づきがあって少しづつ成長していくものであって、自分から見ていろいろと足りない、ともすれば許せないような人間は、ただただ発展途上であるにすぎない。馬鹿はどこかで学ぶかもしれないし、生意気な奴はどこかでバッキバキに折られるだろうし。
科学的にいえば、怒りという感情は怯えからくるらしい。怒っている人は、全員なにかに怯えているということだ。それは売上未達成で会社が赤字になる恐怖かもしれないし、納期に間に合わずお客さんに怒られる恐怖かもしれないし、まあとにかく、よく怒る人ほど気が小さいということに違いなさそうである。自分が怒りを表明しようとしている、その相手の言動や行動は、自分にとってそんなにも脅威なのか。よく考えてみると、どうでもいいことがほとんどなんじゃないかと思う。
怒らなくなったと同時に、お節介もほとんどしなくなった。目の前で馬鹿な人がなにか失敗しようとしていても、馬鹿な人なりの信念に基づいている場合、絶対にお節介してはいけない。人間というのは基本的に他人に指図されるのが嫌いで、たぶん何かの心理学の実験なんかでも結果がでていた気がするが、要するに「たかし宿題やったの?」「いまからやろうと思ってたのに! もうやらない!」ってやつですね。むしろ、指図されるとその逆をやりたくなるのが人間だそうで。だから間違おうとしている人間に正解を教えるのは意地を張らせて間違いを加速させるだけで、そのうえ自分と相手の信頼関係を失うだけなので、何一ついいことはない。人間は失敗しないと学ばないのだから、死なない程度に失敗して、やり直しがきく程度に時間を浪費すればよいのだ。まれに非常に賢い人や、たまに賢くなる人がいて、先達に助言を求める人がいるが、そういう人には喜んで教えてやるといい。面白い話と役立つ話をするおっさんは女子に好かれるが、説教と自慢をするおっさんには存在価値はないとうしじまも言っていた。役立つ話のつもりで説教をするのがおっさんの特性であるから、おっさんは基本的には一生懸命面白い話だけしていればよい。面白い話のできないおっさんは黙ってニコニコしてろ。
そういうような気付きや変化がここ数年の私にはあったのだけど、これだって他人に言われたってきっと分からなかったに違いないので、この文章を読んだからといってあなたが他人を許せる仏のような心をもった人間になれるわけではない。頭で理屈を理解するのと、得心するというのはまったく別物であって、外部から他人になにかを得心させるということは相当難しい。基本的にはあきらめるのが吉である。自分の文章が誰かを改心させるなんてことは到底期待するべくもないし、もし多少なりとも面白いと思ってもらえばそれで十分御の字である。
同人誌の値段は500円をめざす
たいへん重要なお知らせ
最近あんまりお寿司を食べてないし食べる気にならない
これも華麗に友Nowsikounohenkatoiuyatuka......
最近のおきにいりは北千住かつやの豚しゃぶ食べ放題999円です
私北千住ネタちょくちょくアップするんですが別に北千住に住んでるというわけではないです
スシローの鯖寿司とてもおいしくて気に入ってたんですがマサバ食べるのやめよっかなっておもって
ゴマサバだったらたべたい
私の好きな、ビール好きが喜ぶお店全部教える
浜松町駅とつながっている貿易センターの中のお店です。
結論:意味不明なお店がたくさんある
高性能4Gスマホ+コンパクト3Gスマホ2台持ちのススメ
・Xperia Z3
・UQmobileデータ高速プラン LTE 3G/月 容量超過後は200K
UQ-mobile UQ-mobile エントリーパッケージ(microSIM/nanoSIM 共用)データ通信・音声通話 に対応 VEK06JYV
- 出版社/メーカー: UQ-mobile
- メディア: エレクトロニクス
- この商品を含むブログを見る
・月額980円