きつねこの週刊デイリー寿司ニュース

主に食べたお寿司についてつぶやきます

平穏な心で日々を過ごす方法

最近、怒らなくなった。

元来神経質で怒りっぽいほうで、例えば待ち合わせに遅刻してくる人なんかも許せなかったのだけど、なんだか数年前、あるとき「別に遅れてもいいんじゃね?」というアイデアが頭に浮かび、「待ち合わせに遅れてはいけない」という自分の中のルールを、「別に遅れたっていいじゃん」に変えてみたところ、ずいぶん人間関係がはかどるようになった。予定が狂うことを嫌う人もいるが、予定など狂うものである。30分遅れてくるならカフェに入ればいいし、1時間遅れてくるなら服屋でも物色すればいい。2時間遅れてくるなら寿司屋に行く。

きっかけはその時間にルーズな人間を許すというところで、これは今考えてみると、「時間は守るべき」という自分の中の勝手なルールにしたがって、相手にも時間通り到着することを暗黙のうちに勝手に期待していたため、いざ遅刻されると裏切られた気になり、被害を受けたように感じてしまうのである。こちらは時間通り来ているので不公平感もある。勝手に期待されて勝手に裏切り者にされて勝手に恨まれる相手はたまったもんじゃない。

最初から相手に期待しないようになると、たとえ相手が10分遅刻しようと、1時間遅刻しようと、それどころか来なかったとしても、全く相手に対する怒りは沸かなくなる。もちろんすっぽかされると残念ではあるし、ああ、こいつはこういうやつなんだな、という、実績に基づく定量的な評価はするものの、恨みがましい感情を相手に募らせることはなくなる。

むしろ、そういう考えかたになってからというもの、時間を守る人間、納期を守る人間、義理堅い人間なんかに対する評価が非常に高くなった。約束を守ることに期待する世界では、約束を守るのは当たり前なので、約束を守っても何の評価もないが、約束を守ることが期待されない世界では、約束を守る人間というのは期待以上の非常に優秀な人間に見えてくる。

同じように、モノを知らない馬鹿、礼儀のない失礼な人間、視野が狭くて驕っている人間、他人の気持ちを汲めず自分の思考を押し付けるだけのアスペといった人間のこともどんどん許せるようになっていった。彼らはみな悪意があって、こちらを害そうとしてそうしているわけではない。たまたま考えや経験が足りないだけであって、その根本はきわめて善良な人間であることがほとんどだ。そんな善意の人に対して、なにかが足りなかったからといって怒りをあらわにして詰問したりするならば、それこそが悪意である。

男をATMとしか見ていない女子なんかは常に攻撃対象にされているが、たまたま運が悪くて、出会う男のことごとくが、女を性欲の捌け口にとしてしか扱わないようなクソだったのなら、そんなふうになってしまうのも当然だ。

アホな学生もよくネタにされているが、おおかたそれを笑っている社会人のおっさんおばさんだって大学時代はおおむねそんな感じだったでしょ? 

キチガイ老人の跋扈するニュースも途絶えないが、彼らはさすがにもう更生不能だとしても、若い人間はいくらでも改心のチャンスがある。いろんなタイミングでいろんな気づきがあって少しづつ成長していくものであって、自分から見ていろいろと足りない、ともすれば許せないような人間は、ただただ発展途上であるにすぎない。馬鹿はどこかで学ぶかもしれないし、生意気な奴はどこかでバッキバキに折られるだろうし。

科学的にいえば、怒りという感情は怯えからくるらしい。怒っている人は、全員なにかに怯えているということだ。それは売上未達成で会社が赤字になる恐怖かもしれないし、納期に間に合わずお客さんに怒られる恐怖かもしれないし、まあとにかく、よく怒る人ほど気が小さいということに違いなさそうである。自分が怒りを表明しようとしている、その相手の言動や行動は、自分にとってそんなにも脅威なのか。よく考えてみると、どうでもいいことがほとんどなんじゃないかと思う。

怒らなくなったと同時に、お節介もほとんどしなくなった。目の前で馬鹿な人がなにか失敗しようとしていても、馬鹿な人なりの信念に基づいている場合、絶対にお節介してはいけない。人間というのは基本的に他人に指図されるのが嫌いで、たぶん何かの心理学の実験なんかでも結果がでていた気がするが、要するに「たかし宿題やったの?」「いまからやろうと思ってたのに! もうやらない!」ってやつですね。むしろ、指図されるとその逆をやりたくなるのが人間だそうで。だから間違おうとしている人間に正解を教えるのは意地を張らせて間違いを加速させるだけで、そのうえ自分と相手の信頼関係を失うだけなので、何一ついいことはない。人間は失敗しないと学ばないのだから、死なない程度に失敗して、やり直しがきく程度に時間を浪費すればよいのだ。まれに非常に賢い人や、たまに賢くなる人がいて、先達に助言を求める人がいるが、そういう人には喜んで教えてやるといい。面白い話と役立つ話をするおっさんは女子に好かれるが、説教と自慢をするおっさんには存在価値はないとうしじまも言っていた。役立つ話のつもりで説教をするのがおっさんの特性であるから、おっさんは基本的には一生懸命面白い話だけしていればよい。面白い話のできないおっさんは黙ってニコニコしてろ。

そういうような気付きや変化がここ数年の私にはあったのだけど、これだって他人に言われたってきっと分からなかったに違いないので、この文章を読んだからといってあなたが他人を許せる仏のような心をもった人間になれるわけではない。頭で理屈を理解するのと、得心するというのはまったく別物であって、外部から他人になにかを得心させるということは相当難しい。基本的にはあきらめるのが吉である。自分の文章が誰かを改心させるなんてことは到底期待するべくもないし、もし多少なりとも面白いと思ってもらえばそれで十分御の字である。