きつねこの週刊デイリー寿司ニュース

主に食べたお寿司についてつぶやきます

車がこない信号を待つ意味

東京都中央区で働いている。東京都中央区というと、これだけ日本が落ちぶれてもいまだ世界ナンバーワン都市圏である東京都市圏の中心地である東京都のさらに中心部というすごい場所である。そんなすごい場所に生活している人たちは皆一様にハイスペックで善良でモラルが高い。私を除いて。

 

駅の出口から事務所までは徒歩2〜3分。とても近くて便利。その間に小さな信号が2つある。まいばすけっとに寄って朝ごはんを買うと信号は4つに増える。朝の出勤、昼休みの行き帰り、夜の退勤と、おおむね1日にこれらの信号を2往復ほどするのだが、そのほとんど、8割がたを信号無視している。こんな大人にはならないほうがいいです。私以外のほとんど、9割9分くらいの人は信号を守っているので、その中をさっさと信号無視して歩いていく私は、彼らに異質な目で見られている。無言の同調圧力を感じる。

 

にもかかわらず、私はいっこうに信号無視をやめる気配がない。もちろん理由がある。無駄な時間を過ごしたくないから。

 

やっぱりこういう価値観というのは子供の頃の親の教育というものが大きくて、父親はいつも「車が来てなかったら渡ってもいい、ほんまはあかんけどな」と言っていたので、私は常々そうしてきた、というのが単純に言えばそれだけなのだが、いいかげん三十路も超えていい大人なので、さすがに親の教育のせいにするのもどうかということで、一応自分なりに噛み砕いて考え直した結果、やはり明確な意思をもって信号無視を続けている。

 

仮に私が信号無視をしているときに通行人に引き止められ「こら信号無視すんな」と言われたとして、「すいません、今家族が交通事故にあって救急車で運ばれたとの連絡があって、重症で命が危ないとのことなので、信号を待ってる余裕がないんです、一刻も早く行かなければならないんです」と言えば、おそらくほとんどの人は「そうか、じゃあしょうがない」と行かせてくれるのではないかと思う。ごく一部の人はそれでも融通がきかず許してくれないかもしれないが、多分そんな人は常に信号無視をすることをポリシーとしている人と同じくらい少ないと思う。

 

ここまで脳内でシミュレートして、おかしいな、と思ったのである。交通事故で重症で死にかけの家族は信号を待った数十秒1分のせいで死に目に会えないかもしれないが、いつ死ぬか分からないのは今現在健康な私だって、信号を守っている人だって同じである。確実に言えるのは、車のこない信号を待つということは、人間にとって最も貴重な財産である有限の人生をドブに捨てているということだ。つまり、「こら信号無視すんな」「すいません、私はいつ死ぬかわからないので、信号を待ってる余裕がないんです、一刻も早く行かなければならないんです」ということである。ただし、実際にそんなことを言うとちょっとやばい人だと思われるので気をつけたい。堂々と信号無視してる時点ですでにやばいんですけど。

 

たぶん私は20年、30年後にまだ生きていたら、若いころにああしたらよかった、こうしたらよかった、みたいな後悔を一生懸命記憶からほじくりかえして嘆くことになると思う。もし今、ルールだから、というだけの理由で、集団の同調圧力があるから、というだけの理由で、私の人生になんの係りもないよくわからない人によく思われたいためだけに信号を守っていたとしたら、老後に私がやることは無駄に立ち尽くしていた時間の合計を計算して後悔することである。間違いない。その計算の時間と後悔の時間もまた勿体無い。

 

そんな無駄な時間があるなら、椅子に座ってパソコンでしょうもないまとめサイトを巡回しながらお茶やら酒でも飲んでた方が1万倍マシであある。どちらも等しく無駄な時間ではあるし、そもそも仏教的には人生などなんの価値もない無意味なものではあるけれども、どうせ無駄に時間を費やすのなら、自己目的のために使うべきである。であるから、この文章の論旨は、社会のルールを守ることに愉悦を覚える人に対しては適用できない。

 

p.s.

父親には、上記のようなことに加えて、常日頃から「自分で考えて行動しろ」と教わったので、私もそうするかなと思います。しっかり左右を確認して信号無視するのは、左右を確認せずぼーっとした状態で青信号を渡るより安全かと思います。これは信号にとどまらず全てにおいてそうですね > id:minoru0707